あなたは、なぜ、つながれないのか
高石 宏輔著 「あなたは、なぜ、つながれないのか」読了
日曜日の朝6時から4時間くらいかけてゆっくり読み進めた。
以下感想。
” 他人と話していて、ふと自分のことを自分でないように、
どうでもいいものとして感じてしまうことがある。
自分を客観視しているのとは何か違う。
「またいつもと同じような話をしているな」と思うような。
そういうぼんやりとした虚しい感覚だ。”
冒頭の一文である。ここ近々でよく感じていることがそのまま言語化されており
すっと入っていけた。プロローグと1章だけでも購入の価値があった。
この言語化の巧さについて、同居者と多いに盛り上がった。
目の前にあるものやひと、そして自分をあるがままに感じ、そしてその瞬間の心の動き、身体の動きを知る、ということが大事であると、私は読み取った。
普段から考えているテーマの一つに「パフォーマンスの最低値の最大化」がある。
感情が大きく動くことは問題ではない。感情が動いたときに、動いてるという事象自体を把握できるということ、そしてその揺れをすぐに戻すことができることが必要だと考えている。
そのために、快であれ、不快であれ感情が大きく揺れた時に、その瞬間の呼吸の位置・リズム・目線・寒暖(本書でいう感情の色のようなもの)をチェックしている。
具体的にどのように自身の身体の動きや心の動きを把握するのか、方法論も盛り込まれており、不安定な御仁、不安定さにきづきもしていない御仁にぜひ読んでほしい本である。
あーまたこの感じか、こうなって、ああなって、こんな壁があって
いくつかのパターンが考えられるから、これくらいの誘導を行って・・・
と考えだすときが最も息苦しく、それを目の前で見せられるのにも同じ息苦しさがある。
会議していたり、同じ飲みの席で知らない男が女を口説いていたり。
本人がそのときの心の中にある、自分の言葉で話しているかどうかは
見ているとすぐにわかって(意識しないとできないことではあるんだけれど)
それは自分自身の場合も同じで、そこが予定調和的、トークスクリプトやルーティンと言い換えてもいいが、そんな型にはめられたものであると非常に興味がなくなり息苦しくなる。
だが、その予定調和を作り上げるところまでは最高に面白く感じられ難しい。
6割程度まで習得するまでが面白くて、その後の予定調和感に耐えられない。
もっともっと先に行けば見えてくるものがある論は重々承知なのだけれど、
広く好きなものに手を出すことによって見えてくるものの方が追い求めてみたい。
そこに何もなくても。
どこに目標を置くかで、予定調和なんてどうでもいいんだけど、
それなら生きている意味がない。そんな気持ち悪さに耐えられない。
そんなことを思いながら、これからも目の前の人がどう考え、自分が何を想い、
それに自分の身体はどのように反応してるかを追いながら生きて行こうと思います。
これももちろん内面の澱みからでてくるドロドロしたものであるには変わりないんだけど。
快・不快スイッチはどこに
好きなものが一緒でも、時間を共に過ごすことはなかなか難しくて、
そうではなくて嫌いなものが一緒の方が一緒にいて心地よい。
とか考えながら、日々考えてる事と日報的なものを書きます。
このごろ興味のあることは”快・不快のスイッチはどこに”ということです。
今回は不快について。
不快にもたくさんあって、今ちょうど感じている、感じていた不快が
「こっち(自分が作ったものとか作業中のものを)みてくんなよ」と「目の前をうろうろすんな」というもの。
「こっちみてくんなよ」は興味を持っていない人間から興味をもたれていることに関する不快感と、相手をするのがめんどくさいというもの。
後者は時間的な問題なのでそのままっぽいんだけども、前者はそうではなさそう。
分解してみる。職場で後ろに人がいるとか、電車で隣に人がいる、カフェで・・・みたいなそんな状況のお話です。
興味をもっているということを好きか嫌いか、知ってるか知らないかに分けた。
横にホワイトボードがあったから使った。きたない。
下が被ってる時点で良い切り方ではないんだけど、こんな感じ。
知り合いかどうかの時の縦の基準も違うので果たしてこれでいいのか感が溢れて入るが、やっぱりこんな感じ。
右上は少し恥ずかしい。未完成のものを見られる事であったり、
好意=敬意に近いので、少しでもよく見られたいっていう気持ちがある。
左上はまぁあれだよね。カフェでめっっちゃ美人さんが隣いたら
webデザインの勉強してます的な感じでポートフォリオサイト巡回したり。
人によるけど。色々あるので?に。
下なんだけども、ここは多分、「お前みたいなやつに見られたくないんだよ」っていう気持ちで、関わって来るなとか、そんな、心地よい半径の話。パーソナルスペース的な。
ここで考えるのは、すげえ人を区別してるよね!とかではなく、どの象限に関しても自尊心の問題が絡んでいるなーと。
どこから不快かなーと改めて考えた時に、普段関わるのが不快なひとと同じ区分けだったので、相手にどう思われたいかということと、見られるということがリンクしているっぽい。下の網掛けが不快ゾーン。相変わらずきたない。
大勢の前で話したり、外見に関して、距離感に関して言われても何も思わないのに対して、作業中の画面を見られるのに対して異常な嫌悪感を感じるのは、パーソナルスペースが現実的な距離にあるんではなくて、領域が異なっているという事。
考えている事を話すことが非常に億劫で、あまり話したくないということとも繋がっている。
ちょっと引いて考えると、俺様が考えている事は高尚で難しいからすぐは理解できないだろう!という愚かしさと、それでもなお全部理解してほしい幼児性だったり、そういう部分が根本にありそう。
結構深そうなので、根本的に変えるよりは、対処療法的にブライドシートとか貼るのがいいかもしれない。
あと「目の前でうろうろすんな」は考えてたらもう少し違う問題のようなので、また今度。