快・不快スイッチはどこに

好きなものが一緒でも、時間を共に過ごすことはなかなか難しくて、

そうではなくて嫌いなものが一緒の方が一緒にいて心地よい。

 

とか考えながら、日々考えてる事と日報的なものを書きます。

 

このごろ興味のあることは”快・不快のスイッチはどこに”ということです。

今回は不快について。

 

 

 

不快にもたくさんあって、今ちょうど感じている、感じていた不快が

「こっち(自分が作ったものとか作業中のものを)みてくんなよ」と「目の前をうろうろすんな」というもの。

 

「こっちみてくんなよ」は興味を持っていない人間から興味をもたれていることに関する不快感と、相手をするのがめんどくさいというもの。

 

後者は時間的な問題なのでそのままっぽいんだけども、前者はそうではなさそう。

 

分解してみる。職場で後ろに人がいるとか、電車で隣に人がいる、カフェで・・・みたいなそんな状況のお話です。

興味をもっているということを好きか嫌いか、知ってるか知らないかに分けた。

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横にホワイトボードがあったから使った。きたない。

 

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下が被ってる時点で良い切り方ではないんだけど、こんな感じ。

知り合いかどうかの時の縦の基準も違うので果たしてこれでいいのか感が溢れて入るが、やっぱりこんな感じ。

 

右上は少し恥ずかしい。未完成のものを見られる事であったり、

好意=敬意に近いので、少しでもよく見られたいっていう気持ちがある。

 

左上はまぁあれだよね。カフェでめっっちゃ美人さんが隣いたら

webデザインの勉強してます的な感じでポートフォリオサイト巡回したり。

人によるけど。色々あるので?に。

 

下なんだけども、ここは多分、「お前みたいなやつに見られたくないんだよ」っていう気持ちで、関わって来るなとか、そんな、心地よい半径の話。パーソナルスペース的な。

 

ここで考えるのは、すげえ人を区別してるよね!とかではなく、どの象限に関しても自尊心の問題が絡んでいるなーと。

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どこから不快かなーと改めて考えた時に、普段関わるのが不快なひとと同じ区分けだったので、相手にどう思われたいかということと、見られるということがリンクしているっぽい。下の網掛けが不快ゾーン。相変わらずきたない。

 

大勢の前で話したり、外見に関して、距離感に関して言われても何も思わないのに対して、作業中の画面を見られるのに対して異常な嫌悪感を感じるのは、パーソナルスペースが現実的な距離にあるんではなくて、領域が異なっているという事。

 

考えている事を話すことが非常に億劫で、あまり話したくないということとも繋がっている。

 

ちょっと引いて考えると、俺様が考えている事は高尚で難しいからすぐは理解できないだろう!という愚かしさと、それでもなお全部理解してほしい幼児性だったり、そういう部分が根本にありそう。

 

結構深そうなので、根本的に変えるよりは、対処療法的にブライドシートとか貼るのがいいかもしれない。

 

 

あと「目の前でうろうろすんな」は考えてたらもう少し違う問題のようなので、また今度。